昭和43年10月02日 朝の御理解
御理解 第90節
「上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのはむつかしい。道を開くというても、匹夫の俗人から開くのじゃから、ものがむつかしゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ。たとえ一時はむつかしいことがあっても、辛抱してゆくうちには徳が受けられる。」
ここは日頃合楽で頂いておる、合楽的信心とでも申しましょうかね。合楽のおかげの現れ方というか、おかげを受けていくには、かくなからなければならん、またかくあらなければならないと、言っておるその事がここでは一番ハッキリ出ておるように思います。成り行きを大事にとか、しかも信心辛抱とか、ね。そこに時節を待つと、必ずおかげを受けられるが、そういう、神ながらな時節を待たせてもらうおかげを受ける時には、必ず身に徳になる、ね。
辛抱していく間には徳が受けられると、最後に仰っておられる。徳を身に受けて行きながら、頂いていくおかげというものでなからなければなりません。ただおかげを頂いたというだけでそれが徳にも何にもなっていない。それはおかげを受けた体験にはなっておりますね。本当に不思議なおかげを頂いてきたと振り返ってみると、様々なおかげを頂いておられて来たというそのおかげではねその徳になっていない。ね、
ここには、ね、例えば、たとえ一時は難しいことがあっても、辛抱していく間には徳が受けられると、ね。たとえ一時は難しい事があっても、そのことを修行と思い、その事を神ながらと頂いてですね、それを神愛と頂いて辛抱、信心辛抱し抜かせて頂いて行く間におかげが受けられるだけではなくて、ここにはその辛抱していく間に徳が受けられるとこう言うておられます、ね。
ですから私共がこうおかげを受けていくと、その、ね、おかげが受けられるという事は確信を持って、まあ進んでいく訳ですけれども、同時にこういう生き方であれば間違いなしにお徳が受けられるというところに私はこのみ教えの頂きどころっていうのがあるとこう思うんです。そこで果たして、なら私共の生き方がです、成り行きを大事にさせて頂きながら、ね、また修行と頂きながら、神愛と分からせて頂きながら、ね、
そこんところをおかげを頂いて、それは上から下に水を流すように難しい事ではあるけれども、ね、それはやはり匹夫凡人である。匹夫である私共、これはもう全私共総氏子のことでしょうね、匹夫の凡人というのは、ね、私のようなとこう言うところになりますから、これはもう皆がそうです。人間である以上、ひっぷの凡人だと私は思います。ね、が聞くのじゃから、ね、
本当のおかげの道というのが開けてくるというのは難しい、同時に暇がいるという事もです、暇がいらなければならんはずです、ね。この辛抱している間に様々な事を分からせてもらい、悟らせてもらい、ね。そこでその、辛抱はしていっておるが、信心は続けておるが、しかし徳にならんなら、これはまた目も当てられないという感じが致しますね。おかげは受けても。
ここに最後に、辛抱していく間に徳が受けられると仰るその、それが徳が受けられない、ただおかげは何とはなしに頂いてきたけれども、それが徳になっていないと言うなら、これはどこにかこの御理解90節の何処にかもとったものがある、間違ったものがあると、思わにゃならん。そこで私共が現在こうやって信心辛抱させて頂いておる現在の信心のあり方というもので良いかという事をいつも確かめて見なければならない。
自分の現在の信心のあり方で良いのか。お参りは毎日こうさせてもらってるが、こういうお参りの仕方で良いのか。心の状態、心がこのように進んで行きよるというか、進展して行きよるというか、お育てを頂いて行きよるというか。お育てを頂いて行きよるが、こういう育ち方で良いのか。そこんところがハッキリ、まあある意味において、はあこれならば間違いないという確信を持ち。
そこんところに信仰的体験というものをです、感じるように頂いて行かなければ、辛抱して行きよるけれども、ね、ただ辛抱が辛抱、徳を受けていくといったような辛抱にならないとするなら、これは馬鹿らしい事ですからね、これは確かめて行かなければなりません。そこで今日はそこんところを聞いて頂きたいと思うのです。果たしてこれで良いのかと、確かめ確かめしていくところの、ね。
なぜかって言うと信心にもやはり一つの落とし穴というようなものがあるんですよね。落とし穴的なものがある。だから、油断は出来んのです。それこそ手元足元のところをしっかり見極めて行かんとですね、ただこうやって信心しよりゃ何時かおかげを頂くといったようなものでは、つまらんような気が致します。そこで、なら私共がです、おかげを頂くと、大丈夫と、必ずおかげになると、そういう考え方がですね。
本当か本当でないかと、言った様なものを、確かめて行かなければいけません。慢心と安心は紙一重と言われております。ね、慢心から出て来るところの、間違いないおかげが受けられるというのであったら、これはダメですからね。いわゆる心の中に、ね、何とはなしに安心のおかげを感じながら、そして信心が進められていく、というようでなからなきゃいけません。
例えば私昨日、4時の御祈念前に私はどうしても、まあ家内と長女の、まあお供のような事でございました。どうでも私、お父さんに来て頂かにゃいけんというもんですから、久留米に参りました。ここに奉仕しておりましたから、その事を神様にお願いさせて頂いて、下がらせて頂く時に先生方に、今日は誰か昼から自動車でお参りする方があったら、その自動車をつかまえてみてくれというわけなの。
つかまえてその、久留米まで送ってもらいたいと私がこう思うた。それでその、三時にもなりましたでしょうか。今から行くというので、用意を始めましたけれども、お広前誰も今日は自動車来なかったですかと、今日は誰も自動車でお参りをする人がありません。何とはなしに、許されていないような気がする。それで改めて神様にお願いさせて頂いたらお許しを頂いて、まあ言うなら御心眼に紫の花を頂きましたからね。
はあこれは安心してやらせて頂いていいんだな。ちょっとした買い物があったんですけれども、その買い物も許されて買わせて頂くんだなとは思いました。それでも、バスで行きよったんじゃ今日は間に合わん、月次祭もありますから。ですから、まあ相済まんですけれどもタクシー雇うて行こうかなと思わせて頂いたけども、まあ皆の用意が済んでしもうてから電話かけようと私は思うておりました。
それで私共用意してここまで出て参りましたら、あの、愛子が「今ちょうどあのむつやの文香ちゃんが参って来ております、自動車で」。もう私共が用意をしてからここへ出てきたら、その、むつやがお参りして来ておるですね。それはそれは、けれども何か忙しい事はないじゃろうかて言ったら「いいえ今日は別に忙しい事はありません、お供してもいいです」とこう言う。
店員さんは一人乗せて来とるのを、店員さんは、あなたはこれから帰っとって下さいと言うて、ここの自転車で店員さんには帰ってもらって、それであの、文香さんが送ってくれた事になりますね。私はこう、私はいつもが、まあある意味合いで不安なんですよね。それがその心の中にですね、何時も確かめ確かめ、これで良いかこれで良いかとその確かめて見ればですね、確かめてみる度に不安を感ずるです。
なぜって自分の信心の方が本当に出けてないですから。ね、最近のごと事故が頻発しておりますと、これは例えば親子三人連れで久留米にやらせて頂いて、ね、事故にども遭うような事はないだろうか、とこう不安になるのです、一応。ね、不安になるから神様におすがりしなければおられない。おすがりしなければおられないから、そこから生まれて来るところの安心。だから安心して行けれる。
本当言うたらね、私はその、安心と不安というのは何時もこう、背中合わせにあると思わにゃいかんです。大安心のおかげを頂いて、何時もかつもが安心だといったようなおかげを頂きゃ別です。そこでその、今度の大祓式の時に頂いておりますように、今あるを嬉しと思うところまで自分の信心というものが出来ておらなければですね、あの、もし、いや自分はもう朝参りしとるけんで、自分な信心しよるけん、自分な間違いなかと言ったような考え方は、これは安心のようであって慢心です。
私共は、例えばそして外出させて頂くでも、心の中に本当に安心、またはお許しを頂かなければ不安でたまりません。ね、そこに例えばなら、自動車でも乗る時に拝まにゃおられんのであり、ね、本当に今あるを、現在頂いておるおかげを有り難いとこう、有り難いというその気持ちなり、自分の心に湧いてからでなければとても自動車には乗られないというくらいなものがです、私は必要じゃないか。
言うならばだから、不安であるから。言うなれば、薄氷の上を通るような思いと、という事になるかも知れません。何故って自分の信心を振り返ってみると、ね、そげな安心の行く信心はしとらんもん。今あるを嬉しと、いやびまつらなばという、ね、そういうその、おのずとお礼の心が生まれて来るといったようなおかげを頂かなければですね、ね、例えばそれは安心というよりも慢心の方が強いのですよ、ね。
安心と慢心は紙一重、ね、ここで、ね、おかげが難しゅうて暇がいるとこう仰るのです。その難しゅうて暇のいる間をですね、いわゆる心の上にですね、いつも自分の信心を確かめる。言うなれば、何時も、戦々恐々と、言葉が過ぎるかも知れませんけれども、いわゆる薄氷を渡るような日々、いわゆる本当に手元足元を見て、大事にして行きよらなければおられない。
自動車一つ乗らせて頂くでも不安でたまらない。何時何処で事故が起こるやら分からんといったような気持ち、ですから今あるをいっぺん確かめてみて、おかげを受けておる事の有り難さというものを、今日ただいまがある事を有り難いとお礼の申し上げられるような心が生まれて来なければ自動車にでも乗られない。その不安が消えて喜び、または安心。これが私は本当のものだと、こう思うんです。
自分な信心しよるとじゃから、神様に向かうておるのだから大丈夫と、まあ簡単に言うその大丈夫はです、私は応々ににして安心ではなくて、おわび申す心ではなくて、お礼を申し上げる心ではなくてね。もう言うならば仕方のない信心しとってからそげな安心が生まれるハズはないという安心、慢心を安心と、もう、取り間違えておる場合がありはせんかと確かめて行きながら、確かめていくような信心。
そういう信心が辛抱続けられて行かなければいけません。もう一つ昨日の御理解から頂きますとね、所謂我屑の子の自覚、不信心者の私という事でしたですね。この本当に自分のような屑の子自分のような信心でいう、教祖がここに仰っておられる屑の子ほど可愛い信心しておかげを受けてくれよと仰るその、神様のその可愛いという神心神様のお心が私共に向けられ、可愛いという手が差し伸べられると言う様な心。
そこに、私は我屑の子の自覚が出来にゃいけん、本当に信心しておってもですね、本当は信心がなかったら不信心です、そうでしょうが。拝みよりますけん、参りよりますけん信心しよるというのじゃないです、ここではね。毎日毎日お参りをさせて頂き、毎日毎日有り難いお話を頂きながら、どうしてこんなに自分は分からんのだろうか。どうして自分なこのくらいな事が行じられんのだろうか。
本当に相済まん私であり、不信心者の私であるというのである、ね。不思議なんです、そこから生まれて来るものにですね、謙虚な慎み深い心。そういう心が生まれて来るんです、我屑の子という自覚から。いわゆる実意丁寧神信心が自ずと出来てくる、我屑の子であるという自覚が出けてくると、ね。我屑の子の自覚というのを、いわば信心に本当は身が身に入っていきよるのです。
本当なものが頂けていきよる。今まで自分がよかつのごと思うておった自分がです、本当に自分のようなという事になってくる。そこに神様のこの屑の子ほど可愛いと仰る私共の心の中にですね、神様に可愛がられておるというかね、そういう印というものが心の中に生まれて来る。それが勿体無いという心なんです。自分のような者にこのようなおかげを頂いて勿体無いという心になる。
そのいわゆる屑の子という、我不信心者というその自覚とですね、まあ今の言葉で言うと自己嫌悪という言葉がある自己嫌悪。自分が嫌になるもう本当に自分がもう愛想もこそも無いごつなる自分という者が。その自己嫌悪と我屑の子というのは違うそれは慢心と安心が紙一重であるようにです、良く似ておって実は違うのです。我屑の子の自覚はおかげが受けられる心であり自己嫌悪の心はおかげが受けられない心なのです。
慢心がおかげが受けられない、安心がおかげが受けられる。それはしかも、良く似ておる。確かめ確かめ行かなければ、分からないほどによく似ておる、ように我屑の子であるという自覚と、自己嫌悪というのは、良く似てるんですね、もう本当にもう自分ながら自分が嫌になる。もう愛想もコソもない。何という汚い自分、何という浅ましい私、何というだらしない私、
何という卑しい心を持っておる私だというものに触れた時に起きてくる心が自己嫌悪です。自分が嫌になる、よくその自己嫌悪から自殺行為などになっていく人がありますね。もう自分という者がもう嫌になってくる訳なんですね。ところがその、我屑の子というのは、反対なんですね。私のような、いやもう言葉は同じです、私のように汚い、私のように浅ましい、私のような大悪人。
その私にもかかわらず神様はこのようなおかげを下されて、有り難し勿体無しという、そういう心には勿体無いという、だから結局勿体無いという心、そういう物がね、伴うておればあなたは我屑の子の自覚に立っておられるという事が言えるのです。けれども自分を見れば見るほどに嫌になるほどに、ね、汚い、浅ましい、だらしがない。自分というものを見極めてです、ね、
自分というものが嫌になるような心であるとするならば、それは我屑の子というものじゃない。いや、おかげの頂けれるその、それではないという事を分かる。いわゆる確かめ確かめしなければならない、そこんところを。時々やはり私共はその自己嫌悪にかかることがありますですね。もう本当に自分な馬鹿じゃなかじゃろうか、自分なもう出来んとじゃなかろうか、とても自分は出来まいと、いわば何と申しますかね。
自分をはかなみ哀れむ心ですね、言うならば、ね。自己嫌悪にはですね、そういう自己を悲しみ、哀れむ、自分を哀れむ。哀れな自分である、惨めな自分である、ね。「 」のない自分である、そういう時には本当に心取り直しませんと、そういう心ではおかげは受けられないです。世の中が真っ暗になります、ね。ところが教祖がここにおっしゃっておられる、あの屑の子。
我屑の子の自覚に立てとこう言われておる屑の子というのは、ね、言葉に言うと同じような言葉なんですね。私のような汚い、浅ましい、自分のような悪人があるじゃろうか、と自分を掘り下げ、自分を本気で見極めさせてもらう時に、それと、言葉は同じような言葉になって出て来るけれどもです、ね、おかげを受けておるそれはですね、そういう私にもかかわらずこのようなおかげを頂いて勿体無しという答えが。
その結論として出て来るわけです。だからこそ始めにそこにお道でいう実意丁寧神信心というがですね、いよいよ貴方なしには生きられないのであり、ね、貴方のお許しを頂かなければです。今日は、90節から、ね、私共のこれは合楽の言うなら特別な、まあ独壇場的な。私の、まあ言うならば生き方。皆さんが、まあそのあり方というものがです、成り行きを大事に、ね、
して行きながら信心辛抱し抜かせて頂く所から頂けれるおかげ。しかもそれはおかげだけではない、その辛抱していくうちには、ね。辛抱していく内には徳が受けられるとこう最後に仰っておられる、その徳が受けられるという事の為に成り行きを大事にしていけ、ね、真の信心とは、ね、真の修行をしなければならん真の修行と言うのは、今成り行きを大事にしていくながら信心辛抱させて頂く事だとさえ言われております、
ここでは。まあそういう信心を日々続けて行きよるけれども、その内容として私は、ね、この生き方でさえ行きゃ必ずおかげが受けられる、徳が受けられるという確信もって進めて行きよるが、果たしてそれが本当のものであろうかという事を確かめて行くために慢心と安心の事を申しました。そして自分の心の中に慢心ではない、安心の方を取らせて頂くところの精進が必要であると同時に、ね、
我屑の子の自覚というものがだんだん出来て行きよるか我屑の子の自覚と、ね、いわゆる自己嫌悪というものが、慢心と安心が似ておるように似ておる。けれども実際、その本質は似ても似つかないもの。片一方はいよいよ神様に愛される心であり、片一方は神様のその愛の手から離れていき、世の中が暗うなり真っ黒になり、ね、自分がいよいよ惨めに哀れになっていくという心、自己嫌悪というのは。ね、
だからそういう事で、なら信心辛抱が出来ておりますから何時かおかげ頂くじゃろうといったようなのは、これは間違いであるから、自分の信心というものを確かめて行かなければならないという事を申しましたですね。上から下へ水を流すのは見やすいが、下から上へ流すのは難しい。そういう内容を持ったものがあるから、まあ言うなら、難しいと言うのじゃなかろうかと私は、ね。
道を開くと言うても、匹夫の俗人から開くのじゃから、ものが難しゅうて暇がいる、ね。匹夫の俗人、いわゆる我屑の子である。ね、このあたりのところに、我屑の子ではなくて、その自己嫌悪に落ち入るような状態のものであっては、なるほど、ヒップであっても凡人であっても、ね、それがおかげになっていく。ね、やはり自分の心が神に向かうて行くというそれではない、ね。
匹夫の俗人から開くのだから、ものが難しゅうて暇がいると、神のおかげで開かせてもらうのぞと。おかげというのは自分の精進、努力という事ではなくて。自分が精進したから努力したから、よくおかげ話をする時にですね、私がこげな信心した、私がこげな風にしたからこげなおかげを頂いたって言うのはおかしいですね。神様のおかげでこうして頂いた。神様のおかげでこうさせて頂いたというものでなからにゃいかん。
自分がしたように、ような表現をする人があるですね。ですから、ね、例え一時は難しい事があっても辛抱していく間にと、こう仰る、ね。そこんところを、成り行きを大事にさせて頂きながら、そのこと、その一事一事を修行と受けさせてもらい、また親愛と悟らせてもらいながら、ね、それを辛抱していく。その辛抱していくその内容が、ね、慢心ではない、安心。
それを確かめながら進めていく間に、なるほどこれならば徳が受けられるだろうという事が分かりますでしょうが。そういう生き方、そういう内容を持った辛抱であるならば、なるほど最後に辛抱していく間には徳が受けられる。なるほど、今日頂くような御理解の内容に、ね、精進しながら信心を進めて行くならなるほどお徳が受けられるであろう、そしてこれがお徳というようなものであろうかとういものを。
身に感じながら信心が進められていく。徳におかげが伴わないハズはまたないのでございますから、ね、そこから例え下から上へ水を流すようなと思われるようなこと、言うならば夢にも思わなかったおかげ。人間の知恵やら力では考え得られないおかげ、そういうおかげが頂けてくるようになるのでございます。どうぞ一つお互いの信心の内容を検討させて頂くと言うても、ね、
只今、今日頂いたようなところの信心をですね、検討するというのはそういうところを検討しながら信心を進めて行く、ね。大変難しいようにあるけれども、実は楽しいんですよ、ね。例えば今から皆さん、なら自動車持っておられますから、はあ自動車に乗る度にそげなこつばいっぺん思わにゃんなら、ごたるけれど、そうじゃないのです。これは常日頃にちゃんと出来ておる。ね、それが信心なの、ね。
ですからハンドルを握る時に、本当に今あるを嬉しと、もう私のような者が、このような車に乗せて頂いてと思うから、お詫び申さなければおられない、お礼を申さなければおられないのです。そういう心あらばあたることなしであり、そういう心あらば、私は家に不幸の起こる事なしというおかげをですね。例えば私が久留米に行くという事にいたしましても、ね、やはりそこには確かめ、確かめというか。
本当に心に安心のおかげを頂かなければならない。その前は安心ではなくて不安なんだ。ね、薄氷を渡るような思いである。そこに自分の心を神様へジーっと向けさせて頂いて、おすがりしよう、お願いさせて頂くところにです、ね。それこそ電話かけて来てもらったように、私共用意済まして出てきておるところに、ちょうどお願いのしよいむつやの車がそこにやってくる。しかもそこに用事もないと言うのである。
そこに私の久留米行きがです、安心しておかげを頂いて行って帰って来られるという事になってくる訳です。それが本当の例えば安心じゃないだろうか。そういうところにですね、私は一つの信心の、また楽しさというようなものがね。もちろん楽しさというだけじゃなく有り難さと。信心を頂いた者の在り難さをいよいよ感じさせて頂きながらの日々でありたい。そういう内容での信心辛抱でありたいと思うのでございます。
どうぞ。